窓から西方面を覗くと真っ赤な夕日が山の向こうに沈む直前です…♪
慌てて相棒(コンデジ)くんでパチリ^^

今回で”しまなみ海道の旅”は最後となります。
この”しまなみ海道の旅”はまず因島まで一気に行き、生口島、大三島と引き返してくるコースになってます。
大三島の大山祇神社では多くの国宝等を拝見したほか、この神社が日本総鎮守を時の朝廷より賜り
多くの政治家、武人の崇敬を受けた日本を代表する神社であることを再認識しました^^
大三島を後にし伯方島へ…!
「伯方の塩」の伯方島です^^
この建物はかつて存在したとされる中世前期の典型的な山城を再現され、
伯方町郷土資料館として利用されてます。

城門の横には大きなスクリューとイカリが展示され伯方島の産業のシンボルとなってます。
左奥前方には、塩田の跡地も見えてますね。

3階展望回廊から造船所も見ることができ、製塩業や造船業で栄えた島の歴史をうかがわせてます。

伯方島から大島へと渡ります。
大島では”村上水軍博物館”へ立ち寄りました。

昨日、質問がありました「水軍」と「海賊」について、
村上水軍博物館の学芸員の方がお話になってることをお伝えします。
昨今、「村上水軍」ではなく「村上海賊」と呼ぶことが多くなり、少なからず混乱が生じてます。
どちらが正しいのでしょうか…!
「水軍」は、江戸時代以降に使われた用語で、明治から昭和初期には彼らを近代海軍の前身として
評価する見方が強かったため「村上水軍」「伊予水軍」という呼び名が定着したと考えられるそうです。

近年の研究では、村上氏は海の武士団のほかに水先案内人や商人、
漁民や文化人といった様々な顔を持ってることが明らかになりました。
このような多彩な性格に対して「水軍」の一言では表現できないのではないか、
それならば当時の古文書などに見える「海賊」を用いるべきではないか、
という見解が主流になってきたことで「村上海賊」が頻繁に使用されるようになったようです。
村上海賊の機動力として活躍した小型の船、小早船…!

日本遺産のストーリーには、忍者”NINJA”や侍SAMURAI”と同じように、
日本の独自の歴史文化として海賊”KAIZOKU”を世界に発信していきたいという願いが込められてるようですよ^^
お付き合い有難うございました^^
ボチっとしていただけると嬉しいです。

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いつも有難うございます♪
